設置基準は経営をどう縛るのか

石造りの回廊から覗く登りの風景。登った先には石造りの建物が並ぶ。

経営の自由は、どこまでの枠の中にあるか

学校の経営を考えるとき、私たちはつい「どう動かすか」に目を向ける。定員をどう埋めるか、校舎をどう使うか、人をどう配置するか。けれど、その手前に、そもそも動かせない枠がある。定員を増やしたいと思っても、古い校舎を一つ閉じたいと思っても、下限として決められた条件を割ることはできない。日々の経営判断が、実は「そもそもの枠」の内側で行われていることは、あまり意識されない。今回は、その枠を引いている制度——設置基準を、経営の外枠という角度から見ていきたい。

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見えない外枠という感覚

経営の自由は、無限の空間で行使されるものではない。学校には、これだけの敷地がなければならない、これだけの校舎がなければならない、これだけの教員がいなければならない——そうした条件が、あらかじめ決められている。ふだんは意識にのぼらないが、何かを大きく変えようとしたときに、その枠は急に姿を現す。

たとえば、定員を減らして規模を小さくしようとする。あるいは、老朽化した棟を一つ手放して身軽になろうとする。そのとき、思いのほか動かせないことに気づく。減らすにも、残すにも、満たしていなければならない最低の条件があるからだ。経営の判断は、この見えない外枠に触れたときに、はじめてその存在を知る。ふだんは背景に沈んでいて、動こうとした瞬間にだけ、輪郭を現す枠である。

設置基準とは何を定めるのか

この外枠を引いているのが、設置基準である。学校教育法にもとづく文部科学省令として定められ、大学には大学の、高校には高校の、幼稚園には幼稚園の、それぞれの設置基準がある。そこには、校地や校舎の面積、備えるべき施設、必要な教員の数、そして収容定員といった、学校が学校として成り立つための条件が並んでいる。

大切なのは、これらが「望ましい水準」ではなく、「最低限の条件」だという点である。設置基準は、学校が学校であるための、下限を定めている。この基準を満たさなければ、そもそも学校として認可されない。求められるのは数だけではない。教員には担当する分野にふさわしい資格が要り、校舎には教育に必要な設備が要る。量と質の両面から、学校の最低限が形づくられている。

そして定員もまた、経営者が自由に決められる数字ではなく、教員数や施設の規模に見合った範囲で認められる。多く集めたいからと定員だけを膨らませることはできず、逆に、定員に見合う人と場所を欠けば、学校は成り立たない。数字の一つひとつが、制度の条件と結びついている。

最低条件が経営を縛る構造

下限が定められているということは、経営の自由度が、その外側では働かないということでもある。たとえば、教員を減らして人件費を抑えたいと思っても、定員に見合う教員数を下回ることはできない。校舎を縮小したいと思っても、必要な面積を割ることはできない。規模を動かそうとすれば、そのたびに、設置基準という条件を満たし直さなければならない。

つまり、経営の自由度は、制度が引いた外枠の内側でしか動かない定員を数字の問題として眺めているだけでは、この構造は見えてこない。定員は、単なる募集目標ではなく、教員数や施設と一体で、制度に固定された枠なのである。

そして、この枠がいちばん重くのしかかるのは、規模を広げたいときよりも、むしろ縮めたいときである。入学者が定員を割り込んでも、設置基準が求める教員数や校舎の面積は、それに合わせて自動的に小さくなってはくれない。生徒が減った分だけ授業料収入は細るのに、支えるべき下限は、ほぼそのまま残る。定員の半分しか埋まらない学年でも、その教育を成り立たせる教員と施設は、制度上、抱え続けなければならない。募集が振るわない学校ほど、身軽になりたいのに身軽になれない——外枠は、その局面で足かせに変わる。固定費が動かしにくいことの一因も、ここにある。人も施設も、外枠が定める最低条件に、下から縛りつけられている。

外枠は動く

もっとも、この外枠は、永久に固定されたものではない。近年、大学の設置基準は見直され、校地や校舎の保有に関する条件などが柔軟化されてきた。社会や教育のかたちが変われば、求められる最低条件も引き直される。制度が動かないものではないことは、これまで見てきた法や会計基準と、変わらない。

ただし、外枠がゆるむことは、経営が自由になることと同じではない。設置基準がそこにあるのは、学校の名に値する教育の質を、最低限のところで担保するためである。枠を外せば、たしかに経営の身動きは軽くなる。だが、その軽さは、質の下支えを手放すことと引き換えでもある。外枠は、経営を縛る制約であると同時に、教育の質を守る土台でもある

緩和は、定員割れで身動きの取れない学校にとっては、救いにもなりうる。抱え続けるしかなかった下限が下がれば、縮小の痛みは和らぐ。しかしその同じ緩和が、学校の質を最低限のところで支えていた線を、なし崩しに下げていく危うさも抱える。ゆるめてよい枠なのか、守るべき枠なのか。緩和の動きは、その問いを、そのつど経営の側に投げ返してくる。

枠の内で何を選ぶか

こうして見てくると、設置基準は、経営の敵でも、単なる足かせでもないことがわかる。それは、学校が学校であるための最低条件を引き、その内側に、経営の自由が働く余地を残している。枠があるからこそ、その内側で何を選ぶかという問いが、意味を持つ。もし枠がまったくなければ、どこまでも小さく、どこまでも安く、という圧力に、質は際限なく削られていくかもしれない。外枠は、その底を支える線でもある。

定員割れを、経営の失敗としてだけ見るのではなく、制度が引いた枠と、いまの規模とのあいだのずれとして見る。そうすると、打つべき手も違って見えてくる。枠を満たすために規模を保つのか、枠の許す範囲で身の丈を選び直すのか。制度が引いた外枠は動かせなくても、その内側でどう構えるかは、経営に委ねられている。設置基準が縛るのは経営の外枠であって、枠の内側で何を選ぶかは、一つひとつの学校が見極め直すことなのだと思います

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