制度は、経営を縛るためにあるのか
日々の実務のなかで、制度を「守らなければならないもの」として受け取る場面は、少なくないだろう。届け出の期限、満たすべき基準、整えておくべき書類。ひとつずつは理由のある手続きでも、積み重なれば、経営が制度に追われているように感じられることもある。制度に日々向き合う担当者ほど、その重さを身近に感じているだろう。第5章では、その制度を一つずつたどってきた。ここでは、たどってきた道のりが最後に何を残したのかを、いちど立ち止まって確かめておきたい。
たどってきた制度
第5章で見てきたものを、あらためて並べてみる。私立学校法は、学校法人という器の輪郭を定めていた。寄附行為は、その器の設計図だった。改正は、設計図の描き直しだった。評議員会は、経営を支え、同時に牽制する仕組みだった。会計基準は、数字の見せ方を定める様式だった。情報公開は、その数字を外へ開く手続きだった。設置基準は、学校が学校であるための下限だった。
ひとつずつは、別々の制度である。けれど並べてみると、共通する性質が浮かび上がる。どれもが、学校法人が「守らなければならないこと」を、外側から定めている。校種を問わず、規模を問わず、同じ枠がかかる。担当者にとっては、別々の部署の、別々の締め切りとして現れる制度でも、少し離れて眺めれば、ひとつの地面の上に引かれた線であることがわかる。制度とは、すべての学校法人が立っている、共通の地面なのである。
制度は他律である
外から課される枠。これを、少し硬い言葉で他律と呼ぶ。他律とは、自分の外にある基準に従って動くことである。制度は、外から枠を課す他律の仕組みである。 法が定めるから従い、基準が求めるから満たす。その出発点は、いつも自分の外側にある。期限が来れば書類を整え、監査が入れば説明を尽くし、基準が変われば体制を合わせる。制度に向き合う日々は、どうしても受け身の色を帯びる。
もっとも、従うこと自体が悪いわけではない。公共性を担う組織にとって、外からの枠は、身勝手な運営を防ぐ支えでもある。問われているのは、その枠を、ただ従うだけの対象として眺めるのか、それとも自分たちの経営に引き受けるのか——受け止め方のほうなのである。
第34記事でたどったように、私立学校は、建学の精神にもとづく自主性を持つと同時に、公教育を担う公共性を負っている。制度は、その公共性の側から要請されるものだ。社会が学校法人に期待するからこそ、枠が課される。ここに、小さな緊張が生まれる。自分たちで決めたいという思いと、外から従うことを求められる立場と。制度をたどるほど、この緊張は、静かに、しかしはっきりと見えてくる。
自律とは何か
では、その反対にある自律とは何か。ここで、自律を枠からの自由と取り違えないようにしたい。自律とは、枠がないことではない。自律とは、枠を出ることではなく、枠の内側で自ら選び、自ら律することである。
たとえば会計基準は、数字の記し方を定める。だが、限られた財源をどこに充てるかは、それぞれの学校法人が決めることだ。設置基準は、教育の最低条件を引く。だが、その線を超えてどのような学校を目指すかは、建学の精神に委ねられている。同じ会計基準のもとでも、ある学校は奨学に手厚く配分し、別の学校は施設の更新を先に据える。同じ設置基準の下限を満たしながら、最低限にとどめる学校もあれば、大きく超えて特色を築く学校もある。情報公開の場面でも同じことが起きる。最低限を届け出て済ませる学校と、求められる以上に文脈まで添えて開く学校とでは、同じ制度のもとでも、社会への向き合い方がまるで違う。選び方の一つひとつに、その学校の意思がにじむ。制度が描くのは、選択肢の外枠だけである。枠の内側で何を選ぶかは、依然として、学校法人自身の手に残されている。自律とは、その残された部分を、他人任せにしない構えのことなのである。枠があるからこそ、その内側での選択に意味が生まれる。もし枠がまったくなければ、何を選んでも同じだと、選ぶこと自体が軽くなってしまうのかもしれない。
土台と建物のように
ここまで来ると、最初の問いに戻れる。制度と自律は、対立するのか。答えは、そう単純ではない。むしろ両者は、土台と建物のような関係にあるのだと思う。制度は土台であり、自律はその上に立つ建物である。土台があるからこそ、建物は高く積み上げられる。土台を無視して建てた建物は、いつか傾く。急いで一階を飛ばし、二階から建てることはできない。共通の土台があるからこそ、それぞれの学校法人は、安心して自分たちの経営を積み上げていける。
その土台と建物をつなぐのが、ガバナンス である。ガバナンスは、権力を縛るためだけの仕組みではなく、組織が自らの意思で健やかに動き続けるための、自律の仕組みでもあった。理事会や評議員会が形だけの追認の場にとどまるか、実質のある議論の場になるかは、同じ制度の下でも分かれてくる。第25記事で見た 権限委譲 も同じだ。権限を委ねることは、統制を手放すことではなく、現場が自ら判断し、自ら律する余地をつくることだった。制度が土台を固め、ガバナンスが柱を通し、その上に自律という建物が立つ。土台が広く、深いほど、その上に立てられる建物は、かえって自由になる。制度をよく理解している学校ほど、実は動ける幅が広い。そう言い換えることもできるだろう。制度と自律は、対立するどころか、むしろ互いを支え合っている。
縛りではなく、足場として
とはいえ、制度を縛りとして受け取る瞬間が、現場にないわけではない。守らされるもの、従わされるもの、面倒なもの。そう感じる日は、確かにある。着任して間もない頃は、覚えるべき規程の多さに気を取られ、制度は乗り越えるべき壁のように見える。けれど何年か学校の内側で過ごすうちに、その枠が、判断に迷ったときに立ち返れる足場でもあったと気づく瞬間が、ふいに訪れる。同じ制度でも、受け止め方ひとつで、その意味は変わる。縛りと見るか、足場と見るか——制度の重さは、その見方しだいで大きく変わる。 足場として引き受け直したとき、学校法人は、制度に従うだけの立場から、制度を生かす側へと、静かに立ち位置を移す。
第5章でたどってきた制度は、第2章のガバナンス論の下層をなし、第4章で考えた持続性へとつながっている。制度は、経営を縛るためだけにあるのではない。自律を、そして持続を、下から支えるためにもある。そう捉え直したとき、制度をたどる旅は、最後に、私たち自身の構えへと戻ってくる。制度が変わるのを待つのではなく、同じ制度をどう引き受けるかを、自分たちで選ぶ。そこにだけ、外からは動かせない余地が残されている。
制度と自律のあいだに立つとき、ほんとうに問われているのは、制度の是非ではないのかもしれません。その枠を、縛りとしてではなく自分たちの足場として引き受け直せるかどうかに、これからの学校法人の自律は懸かっているのだと思います。
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