2025年4月、改正された私立学校法が施行された。新しい制度への対応は、たいてい目の前の作業から始まる。寄附行為を直し、役員の選び方を見直し、提出する書類の様式を整える。説明会に足を運び、所轄庁とのやり取りを重ね、年度替わりの慌ただしさのなかで、その一つひとつを担ってきた人も多いだろう。
改正対応の実務は、華々しいものではない。新旧対照表をつくり、理事会と評議員会の日程を調整し、細かな問い合わせに答え、認可を待つ。表に出ることの少ない、地道な積み重ねである。制度がまた変わるのか、という言葉に、どこか身構える気持ちがあったかもしれない。日々の業務に追われるなかで、改正への対応は、もう一つの負担として静かに積み上がっていく。その実感は、決して大げさなものではない。この一年を、その対応に追われて過ごした人ほど、よくわかっているはずだ。
ただ——その負担の底で動いていたのは、書式の差し替えではなかった。改正が変えたのは、誰が誰をけん制するか、という権限の配置である。 手続きの更新という見え方の奥で、学校法人という器の構造が、静かに組み替えられていた。第5章のこの回では、その組み替えを、手続きの話としてではなく、構造の言葉で読み直してみたい。書類の山の意味が、少しだけ違って見えてくるかもしれない。
改正の出発点
改正の背景には、経営を執行する機能と、それを監視する機能の境界が曖昧になりやすい、という積年の課題があった。執行する者が、自らを監視する側の席にも座っていれば、けん制は働きにくい。これは特定の誰かの不誠実さというより、役割が重なれば自然にそうなってしまう、構造の問題である。
多くの学校法人は、誠実に運営されてきた。改正は、一部の事例だけを念頭に置いたものではない。むしろ、健全な法人がこれからも健全であり続けるために、器の設計そのものをどう整えるか、という視点から制度全体が見直された。改正の出発点は、人の善意に頼ってきた部分を、構造で支え直すことにあった。
そう考えると、これはむしろ救いでもある。誰かが特別に立派だから回るのではなく、仕組みとして回る。属人的な熱意だけに支えられた組織は、その人が去れば揺らぐ。構造で支えるとは、日々まじめに働く一人ひとりに、過度な重荷を負わせないということでもある。
執行と監視の分離
改正の核は、執行と監視の分離である。理事・理事会が経営を執行し、監事と評議員会がそれを監視・監督する。この二つの役割を、できるだけ重ならないように引き離す。
分離は、対立を生むためのものではない。互いに独立を保つからこそ、建設的な協働と、実のあるけん制が成り立つ。 ガバナンスとは、信頼で見逃し合うことではなく、構造として互いに見合う仕組みのことである。仲が悪いから監視するのではない。むしろ、信頼しているからこそ、互いの役割を尊重し、見るべきところは見る。改正は、その仕組みを一段はっきりさせた。
兼職禁止という線引き
分離を具体の形にしたのが、兼職の禁止である。改正により、理事と評議員を同じ人物が兼ねることは、全面的に禁じられた。執行する者と監視する者が、一人のなかに同居することがなくなる。
監事の選び方も変わった。これまで理事長の側で選ばれていた監事は、評議員会の決議によって選任されることになり、理事会からの独立性が強められた。監視する側を、される側から切り離す。 線引きは、個々人の自制に委ねるのではなく、構造として独立を担保する方向に引かれた。
ここで一度、自分の法人を思い浮かべてほしい。これまで、監事は誰の意向で選ばれてきただろうか。理事会の議論に、外からの視点はどれだけ届いていただろうか。誰かを責めたい話ではない。長く一緒に働いてきた人どうしが要職を兼ねるのは、ごく自然なことでもある。気心が知れているからこそ、話は早く、物事は滑らかに進む。だが、その自然さと滑らかさのなかで、見えにくくなる視点がある。改正が引いた線は、そうした日々の力関係に、少しずつ作用していく。
評議員会の重み
この改正で、評議員会の位置づけが重くなった。評議員の構成には制限が設けられ、職員である評議員は総数の三分の一まで、理事や理事会が選んだ評議員は総数の二分の一までとされた。監視する機関が、執行する側の影響で埋め尽くされないための歯止めである。
制度がいくら整っても、評議員会が形式的な報告の場にとどまっていては、けん制は働かない。あらかじめ用意された議案が、ほとんど議論もないまま承認されていく——もし会議がそうした流れになっているなら、変わったのは条文だけで、構造はまだ動いていない。これは、出席する側の熱意の問題というより、意見を述べやすい場になっているかどうか、必要な情報が事前に届いているかどうか、という設計の問題でもある。逆に、率直な問いが一つ出るだけで、議論の質が変わることもある。合議制が実質を持つかどうかは、最後はその場に集う一人ひとりの向き合い方にかかっている。評議員会そのものについては、次回、もう少し近くで見ていく。
権限の再配分
こうして並べてみると、改正が個々の手続き変更の寄せ集めではないことが見えてくる。兼職の禁止も、監事の選任方法も、評議員会の構成制限も、向いている方向は一つである。執行に傾きがちだった重心を、監視の側へ少し戻す。改正が変えたのは、権限の配置そのものである。
そして、構造を組み替えただけでは、組織は自動的には変わらない。設計図を引き直しても、その通りに建て直さなければ、建物は前のままである。新しい構造を実際に動かすのは、理事であり、監事であり、評議員であり、そして、その実務を日々支える一人ひとりである。制度は器であり、運用はそこに流れる水である。器を新しくしても、水が流れなければ、組織は変わらない。逆に言えば、それを動かす人たちが構造の意味を理解したとき、改正はようやく、紙の上の変更から実際の力になる。
運用に託されるもの
ここで一つ、見落とされがちなことを書いておきたい。新しい構造を日々動かすのは、結局のところ、それを運用する人々である。理事会に資料を整え、評議員会の論点を準備し、監事が必要とする情報を揃える。その地味な実務の質が、構造が機能するかどうかを静かに左右している。
だからこそ、改正の趣旨を最もよく理解しておくべきなのは、制度を日々運用する人々かもしれない。何のための分離なのか、何のためのけん制なのか。その目的が共有されていれば、手続きは形式ではなく、組織を守る仕組みとして働きはじめる。改正は、運用する人々に負担を課したと同時に、その人々に器を動かす役割を託したのだともいえる。
改正対応の実務は、通知を読み、寄附行為を直し、様式を整える——その対応は、まず負担として表れる。大変さは、実際に手を動かした人ほどよく知っている。だが、その手続きの底で動いていたのは、誰が決め、誰が見守るのか、という構造の組み替えだった。書類を整え終えたあとに、もう一度だけ問い直してみたい。自分の学校では、その構造がいま、どう働いているのか。理事会は、評議員会は、監事は、それぞれの役割を、文字どおりに果たせているだろうか。この記事が、手続きの奥にある設計を見つめ直す、一つのきっかけになれば幸いです。
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