改正が席を整えたその先で、この機関は何をしているのか
学校法人の話のなかで、理事会の名前を聞く機会は多い。それに比べて、評議員会が何をしているのかは見えにくい。その会議がいつ開かれ、そこで何が話されているのかを、日々の校務のなかで知る機会は少ない。誰がそこに名を連ねているのかすら、はっきりとは知らないまま働いている人も少なくないだろう。前回、改正私立学校法が評議員会をめぐる席の配置を組み替えたことを見た。ただ、席を整えることと、その席で実質が動くことは、同じではない。今回は、その席の内側に少し近づいてみたい。
評議員会という存在の見えにくさ
評議員会と現場のあいだには、簡単には埋まらない隔たりがある。決算の数字や中期計画の文言として法人を見る位置と、目の前の生徒や保護者を通して法人を感じる位置とでは、同じ組織を語っていても手触りが異なる。この隔たりは、以前ふれた理事会と現場の温度差と同じ根を持っている。
評議員会の見えにくさは、その機関が不要だからではない。むしろ、法人の根幹に触れる場でありながら、日常の校務から遠い位置に置かれていることの裏返しである。遠いからこそ、そこで何が起きているのかは、意識して近づかないと見えてこない。
評議員会は何をする場か
まず、評議員会が実際に何をする機関なのかを、正確に押さえておきたい。評議員会は、法人の重要事項について意見を述べる諮問の場であり、同時に、一定の事項を自ら決める議決の場でもある。改正後、監事は評議員会の決議によって選任されることになった。理事そのものを選ぶのは理事選任機関だが、その選任に先立って、評議員会は意見を述べる。決算や事業計画、寄附行為の変更といった要所でも、評議員会の意見が求められる。
つまり評議員会は、自ら経営を執行することはしないが、法人の意思決定の全体を見渡し、要所で関与する立場にある。会計と業務の適正を見張る監事が、いわば一点に絞って監督するのに対して、評議員会は法人の全体に面で目を配る。両者はともに監督の色を帯びるが、評議員会は議決と諮問の入りまじった、少し独特の機関である。単純に「チェック役」と言い切れないところに、この機関のわかりにくさと、重みがある。
諮問と議決が混じっているという性格は、評議員会の力の使いどころを微妙なものにする。監事を選ぶような場面では、評議員会の意思がそのまま結論になる。一方、理事の選任や事業計画のように意見を述べるだけの場面では、その言葉が実際にどれだけ重く受け止められるかは、法人の運び方しだいで変わる。強い決定権を持つ場面と、声を届けるにとどまる場面とが同居している。だからこそ、条文の上で権能を確かめるだけでは足りず、その権能が現場でどう働いているのかを、あわせて見ておく必要がある。
形だけの評議員会という問題
制度としての権能を確かめたうえで、その実際に目を向けたい。あらかじめ整えられた議案が、ほとんど質問も出ないまま「異議なし」で承認されていく。事務局が周到に準備した資料が読み上げられ、形式どおりに時間が進み、会議は予定より早く終わる。誰も反対しなかったことが、円滑に運んだ証として受け取られる。そうした評議員会は、決してめずらしいものではない。むしろ、進行がなめらかであるほど、よく機能していると錯覚されやすい。
しかし、静かに流れる会議が、必ずしも健全とは限らない。問いが出ないのは、問う必要がないほど運営が透明だからかもしれないし、問いを差し挟みにくい空気があるからかもしれない。同じ「異議なし」でも、その内側で起きていることは正反対でありうる。
前回見たように、改正は評議員会の構成や独立性という器を整えた。だが、器がいくら整っても、そこに問いが生まれなければ、評議員会は用意された報告を聞くだけの場にとどまる。制度は席を用意することはできても、その席に座った人が口を開くかどうかまでは決められない。変わったのが条文だけで、会議の中身が以前のままであれば、構造はまだ動いていない。逆に、率直な問いが一つ出るだけで、議論の温度が変わることもある。評議員会が実質を持つかどうかは、最後は、その場に集う一人ひとりの向き合い方にかかっている。
独立性という設計とその代償
もっとも、独立性を高める設計には、影の面もある。外部性を強く求めるほど、法人の内情や歴史を知らない委員が増え、議論がかえって上滑りすることもある。学校の来歴も、そこで働く人々の事情も知らないままでは、的を射た問いは立てにくい。独立と無理解は、紙一重で隣り合っている。加えて、小規模な法人ほど、ふさわしい評議員を継続的に確保するのは容易でない。地域や分野が限られれば、候補となる人の顔ぶれも自ずと狭まる。制度が求める理想の構成と、現に集められる顔ぶれとのあいだには、しばしば開きが残る。
そして、より根の深い論点がある。監督を強めることは、第5章の入口で見た「自主性」を、その分だけ外からの規律に譲ることでもある。独立性の強化は、私学の自律にとって、手放しの前進とは言い切れない。それはむしろ、自主性と公共性のあいだの均衡点を、また少し公共性の側へ寄せた選択だったとも読める。改正を、けん制の仕組みが整った前進と見ることも、自律の幅がまた一つ狭まった変化と見ることも、どちらも成り立つ。
だからこそ、評議員会が形だけのものになるか、実質を持つ機関になるかは、制度そのものよりも、それを運用する人の姿勢に大きく左右される。整えられた器に何を注ぐのかは、条文の外側の問題である。
誰のための機関か
こうして見てくると、評議員会が誰のための機関なのかが、少しずつ像を結ぶ。それは理事会のための機関ではない。職員の代表が集う場でもない。評議員会が向き合っているのは、学校法人そのものと、その先にある公共性である。私学は、授業料だけでなく補助金や税制上の優遇という公の支えを受けて成り立っている。その支えがある以上、運営が誰か一部の意思だけで進んでいかないことを、外側から見届ける席が要る。在校生や、これから入ってくる学生・生徒、卒業生、そして法人を支える社会に対して、運営が開かれているかを確かめる。評議員会は、そのために置かれている。
評議員会が静かであることは、機能していないことを意味しない。むしろ、何かが傾きかけたときにはじめて、その存在の意味が立ち上がる。問われるのは、いざというときに、その機関が法人へ向けて問いを発せられるかどうかである。評議員会とは、答えを出す場である前に、法人が自らの歩みに問いを向け続けるための席なのだと思います。
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