教員と職員という、二つの層
朝、教室の鍵が開けられ、事務室では機器が動きはじめる。授業の準備をする者がいて、その隣では、問い合わせの電話が鳴り、支払いの処理が進んでいく。第5章までにたどってきた制度は、この日常の背後で、学校法人という器の輪郭を静かに定めていた。私立学校法から設置基準まで、どれも学校が学校であるための土台である。だが、その器は、それ自体では動かない。届け出を出すのも、基準に体制を合わせるのも、数字を組み立てるのも、規程を実際の運用に落とすのも、すべて人の手を通る。分厚い規程集も、決裁のルートも、調査や監査に備えてそろえる資料も、扱う人の判断を通らなければ、ただの文字の連なりでしかない。制度の先には、いつも人がいる。第5章の終わりで、制度を引き受け直すのは私たち自身だと書いた。その「私たち」とは、いったい誰なのか。第6章は、その問いから始めたい。ここから視点を、仕組みそのものから、仕組みを動かす人へと移していく。制度は器の輪郭を定めるが、その器を動かしているのは、そこで働く人である。
教員と職員という二つの層
学校法人で働く人を、ここで一度整理しておきたい。授業をし、学生や生徒と日々向き合い、教育を直接に担うのが教員である。経理や予算、労務や就学支援金の事務、契約や施設整備——教育を成り立たせる運営の全体を担うのが職員である。そして両者をまとめて教職員と呼ぶ。本章では、この三つの語をこの意味で使い分けていく。
もっとも、この二分はあくまで見取り図であって、実際の学校には、この線にきれいに収まらない人も多い。司書や実習助手、相談員、施設や環境の整備を担う人たち。専任もいれば、非常勤講師や有期の職員もいる。誰をどのように迎え、どう抱え続けるのかという問いは、育成やキャリアの話と切り離せないため、章の後半であらためて扱う。
境目もまた、校種や規模によって動く。入試や広報は、大学では職員が担うことが多いが、中高では担当の教員が中心になることも少なくない。施設まわりも、大きな改修や契約は職員が扱う一方、日々の小さな故障の手当てや学校行事の対応は、教員の手に委ねられることがある。境目は思いのほか流動的で、その分担のかたち自体が、それぞれの学校の個性でもある。
それでも、二つの層が噛み合わなければ学校が動かないことは変わらない。教員だけでは、給与の計算も校舎の維持も入学の手続きも回らない。職員だけでは、肝心の教育そのものが成り立たない。新しく着任した教員が、授業の進め方を相談する相手は先輩の教員であり、判断を仰ぐ先は管理職である。その一方で、旅費の精算や備品の発注、各種の届出といった手続きは、職員が引き受ける。逆に、職員が自分の仕事の意味を実感するのは、しばしば教室を通してである。整えた予算や設備が、生徒の学びに変わっていく。誰かの持ち場が、別の誰かの仕事を支えている。
担うものが違う二つの層を、どこに置き、どう連ねるか——それを描いたのが、第6記事でみた 組織構造 であった。もっとも、担うものが違うことと、置かれ方が等しいこととは、別の話である。給与の体系も、意思決定への距離も、二つの層で同じではない。その差がどこから来て、どこまでが必然なのか。第6章が繰り返し立ち返ることになる問いである。学校は、担うものの違う二つの層が噛み合って初めて動く。
個人の頑張りではなく、組織として
人が働くと聞くと、私たちはつい、個人の頑張りを思い浮かべる。熱心な教員、よく気のつく職員。たしかに、一人ひとりの資質や意欲が果たす役割は大きい。だが、同じ人でも、置かれた場所によって力の出方は変わる。裁量のない部署では有能な人もいつしか受け身になり、責任を任される場では平凡に見えた人が驚くほど伸びていく。誰と組むか、どんな仕事を任されるか、その働きが誰にどう見られているか——そうした周りの条件が、本人の力の出方を静かに左右する。
ここでいう構造とは、席の配置や役職の名前だけを指すのではない。誰が何を決められるのか、失敗が学びになるのか責めに変わるのか、情報がどこまで共有されるのか。目には見えにくいこうした仕組みが、人の動き方を少しずつ形づくっていく。人の働きは、本人の資質だけでなく、それを支える構造によって形づくられる。 だとすれば、問うべきは「誰が優秀か」だけではない。人がその力を発揮できる構造になっているか、である。個人を責めるだけでは、構造が変わらないかぎり、次に来た人も同じところでつまずくことになる。
とはいえ、構造がすべてを決めるわけでもない。同じ仕組みの下でも、粘り強く準備を重ねた人が周りを動かし、結果として仕組みのほうが変わっていくことはある。前例をひとつ作った人がいたから、翌年から手続きが変わった。そうした小さな変化は、どの学校にも積もっているだろう。人は構造に形づくられると同時に、構造を作り替える側にも回れる。両者は一方通行ではなく、往復の関係にある。第6章がこれから扱うのは、だから「立派に働こう」という心がけの話でも、「悪いのは仕組みだ」という嘆きの話でもない。人と構造が互いを形づくっていく、その往復の道筋である。
現場と経営のあいだで
人が構造のなかで働くとき、立つ場所によって見える景色は違ってくる。理事会には経営全体の数字や長い時間軸が見え、現場には目の前の生徒や、今日さばくべき業務が見える。同じ学校を思っていても、優先するものは自然にずれる。経営が数年先の投資を語るとき、現場は足元の人手を案じている。第10記事でみた 理事会と現場の温度差 は、どちらかが怠けているから生じるのではなかった。立っている場所が違えば、見えるものも、大事に思うものも違ってくる。温度差は個人の問題ではなく、立つ場所の違いから生まれる、構造の一部である。
担い手とは、しばしばこのあいだに立つ人でもある。経営の意図を現場の言葉に置き換え、現場の実感を経営の判断へ届ける。数字と手触りのあいだを、日々行き来する。もっとも、その往復を個人の器量に委ねてしまえば、その人が異動や退職でいなくなった途端に、行き来は途絶える。誰がその役を担うのか、どの会議を経て、どの経路で情報が上下するのか。つなぎ目もまた、人柄に頼るのではなく、仕組みとして設けることができる。結び目が緩めば、いくら制度が整っていても、決めたことは現場に届かず、現場の声は上へ上がらない。学校は、思うようには動かなくなる。
これから見ていくもの
第6章では、この担い手の層を、いくつかの角度から見ていく。事務職員を単なる事務ではなく、経営を支える専門職として捉え直すこと。教員と職員が、どこで役割を分け、どこで噛み合うのか。人はどう育ち、どんなキャリアの時間を歩んでいくのか。何を、どのように評価し、どう処遇するのか。そして、人が替わっても学校が続いていくための、世代交代と継承。どれも、個人の心構えの話ではなく、人が動き、育つための構造として扱っていく。
器は、置かれているだけでは器でしかない。そこに人が入り、日々使われ、手入れをされて、はじめて学校という営みになる。第1章から第5章までかけて見てきたのは、その器の形と、器を支える土台であった。ここから見ていくのは、器の内側で毎日をつくっている人たちのほうである。視点を担い手へ移すことには、理由がある。構造は、人が動かして初めて、意味を持つからである。
学校法人を動かしているのは誰か。その問いは、特別な誰かにではなく、今日も持ち場で働く一人ひとりに、静かに戻ってくるのだと思います。この問いから始めて、人が働き、育っていく構造を、これから一つずつ見渡していきたいと思います。
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