学長・校長の権限はどこまでか

石畳のアーチ型の門の向こうに緑

学長や校長は、その学校の教育における最高責任者である。授業のあり方、教育課程、学生・生徒の学びの方向。その質に責任を負う立場として、多くの人が真っ先に思い浮かべる顔だろう。けれど、法人全体の最終的な意思決定は、理事会にある。予算も、人事も、最後の決裁は別のところにある。

ここに、静かな緊張関係が生まれる。教育の専門性を担う立場と、法人の持続性を担う立場。この二つは、本来、対立するものではない。けれど、役割の境界が曖昧なままだと、判断はしばしば停滞する。本稿では、学長・校長の権限を、「どこまでか」という線引きの問題として整理してみたい。問われているのは権限の大小ではなく、権限と責任が噛み合っているか、である。

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教育と財務のあいだ

教育内容に関する裁量は、どこまで認められるのか。人事や予算の決定に、どの程度まで関与できるのか。学長・校長は、教育の質に責任を持つ立場である。一方で、法人は、財務的な持続性に責任を持つ。

この二つは、切り離して考えることができない。良い教育を続けるには資源が要り、その資源は、法人の持続性の上にはじめて成り立つ。教育と財務は、対立する軸ではなく、互いを支え合う両輪である。 現場では、「これをやりたい」という思いと、「予算が」という現実のあいだで、判断が揺れる場面が少なくない。その揺れ自体が、二つが分かちがたく結びついていることの表れでもある。

権限と責任の対応

ここで大切なのは、どちらが上か、という優劣ではない。権限と責任が、きちんと対応しているかどうかである。権限が与えられていないのに、責任だけを負わされる。あるいは、責任を問われない立場なのに、強い裁量を握っている。権限と責任がずれているとき、人は力を出しにくく、組織はどこかで軋む。

とりわけ、「決める権限はないのに、結果だけは問われる」という状態は、当人を静かに疲れさせる。それは本人の能力や姿勢の問題ではなく、権限と責任の配分という、構造の側の問題である。

支配ではなく、設計

学長・校長の権限は、支配の問題ではなく、設計の問題である。教育の専門性が十分に尊重されながら、同時に、法人全体の方向性とも整合している状態。その均衡が保たれているかどうかが、組織の安定を左右する。

役割が明確であれば、議論は穏やかに進む。境界が曖昧であれば、議論はいつのまにか、個人の姿勢や相性の話へと向かいやすくなる。ここでもまた、構造の問題が、個人の問題にすり替わってしまう。 線を引くことは、誰かの領分を狭めるためではない。どこで誰が責任を持つのかを、互いに分かっておくためである。

教育と経営の接点

学長・校長の権限を考えることは、つまるところ、教育と経営の接点を見直すことにほかならない。線を引くこと自体が目的なのではなく、その線の上で、教育の判断と経営の判断が、無理なく出会えるようにすること。

自分の学校では、教育の判断と経営の判断が、どこで出会い、どこで分かれているだろうか。役職の名前だけでは見えてこない、その実際の境界に目を向けてみる。その境界を一度ていねいに見定めておくことが、教育と経営のどちらをも痩せさせない、静かな土台になるのかもしれません。

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